カタルーニャ ボイ谷のロマネスク

いよいよカタルーニャである。それも最深部のボイ谷、ロマネスクを巡るようになっていつかは、必ず行かなければならないと憧れていた土地である。険しい山々を越え、一気にボイ谷へ駆け入った。ボイ谷には谷襞に沿って7つの集落が点在しているが、その集落には10のロマネスク聖堂が残されている。

カタルーニャ地方のボイ谷はバルセロナから北西方向、車では3時間半、約280kmの距離。この地図の右上の四角いマークをクリックすると、教会名が分かります。

Taüll/Iglesia de Sant Climent

ボイ谷の象徴、 タウイ村のサンクリメン教会である。 ロンバルディア帯を留めるスマートな鐘楼、 幾多の写真で眺めてきたが、本物はどこまでも端正な佇まいであった。集落とは一定の距離を保ち、 祈りの空間としての非日常を演出するには、この距離が必要であったのか。孤高を保つ男前な教会である。周辺の村落はリゾートとして生き残りを図ってきたらしく、 整然と整理され、 観光客にとっては居心地の良い空間となっている。その分、 歴史の垢も取り除かれ、 1000年のロマネスクを期待する向きには、 物足りなさが残る。

 

プロジェクション・マッピングの最終場面
プロジェクション・マッピングの最終場面
カタルーニャ美術館の荘厳のキリスト
カタルーニャ美術館の荘厳のキリスト

教会に入ると、内陣ドームにはいかにも剥ぎ取られた跡のような薄い色づきの荘厳のキリストがあった。ただ、歴史の事実に照らせば、ここには天井壁画の痕跡が残されているはずはないのに、と思いながら眺めていると、辺りは真っ暗となり、大音響の音楽とともに、内陣ドームをスクリーンにした、プロジェクション・マッピングが始まった。最初に見た、薄いキリストもこのプロジェクション・マッピングによるもだった。語りもあり、天井画としての荘厳のキリストの誕生と移築までが簡潔にまとめられている。ただこの演出、知は満足できても、心の部分は空虚に思えて仕方がなかった。本物の荘厳のキリストがカタルーニャ美術館に行ってしまっている以上、仕方のないことと分かっていても、本来の祈りの空間としてはどうかと感じられた。

Taüll/Iglesia de Santa Maria

タウイ村にはボイ谷を代表するロマネスクがもう一つある。マリア聖堂である。人々とその慈しみの距離を縮めるように集落の真ん中にこの聖堂はある。ちょうど日の落ちる瞬間に、後陣側から教会を眺めることができた。ここも端正なロンバルディア帯が屋根際を飾り、鐘楼の高さ、聖堂のサイズ感、辺りの集落とのマッチングともに、三ツ星クラスの雰囲気であった。中に入ると、正面ドームには赤を基調にした鮮やかなマリアの聖母子像の壁画があった。ここも原壁画はカタルーニャ美術館にあるが、思わず、息を呑む荘厳さである。壁を彩る壁画の断片もかなりの面積があり、聖堂内の雰囲気は十分に伝わる。たとえ全てが模写であっても歴史の風化やロケーションの強味によって、原壁画とは違う意味合いを持つようになるのではないかと思われた。

複製画
複製画
カタルーニャ美術館にあるオリジナル壁画
カタルーニャ美術館にあるオリジナル壁画

マリア聖堂内陣ドームの天井壁画。左が現地、右がバルセロナのカタルーニャ美術館に移築されたオリジナル。色調の違いは照明によるカメラ側のホワイトバランスの問題なので、割り引いてみてほしいが、フェイクであっても現地に根付いている強さがあり、一方はオリジナル故の気高さ、誇りが溢れていた。下欄に掲げたのはカタルーニャ美術館に展示されているマリア聖堂にあったオリジナルのキリスト降下(木彫)と壁画群である。

カタルーニャ美術館にあるキリスト降下 オリジナルの木彫
カタルーニャ美術館にあるキリスト降下 オリジナルの木彫

Assumpció de Cóll

一日をかけ、ボイ谷の10のロマネスクを巡った。最初はいちばん南にあるコルの聖堂である。谷沿いの国道から急傾斜の山道を上ると、小さな山村の手前にこの聖堂の鐘楼が見える。扉は固く閉じられていたが、その扉口を飾る、装飾彫刻に見るべき質の高さを感じる。石材そのものの色を使った組み合わせの巧みさと彫りの品格を感じる。上にはレース編みを思わせる繊細なクリスモンが据えられ、支える人物(?)のユーモラスな姿にも、心和む。観光客を意識しない、村の生活を支える、聖堂のようであった。

Santa Maria de Cardet

コルから少し北の集落にあるこの聖堂、看板の案内では開いているはずの時間であったが、閉まっていた。隣家からご婦人が出てきたので、身振り手振りで聞いてみると、電話をかけに行ってくれたが、相手方は出ないようであり、肩をすくめるだけであった。ご婦人に感謝しつつ、諦めるしかなかった。この教会、写真を撮るにも周りは私有地で囲われていて、入ることができず、この向きの写真しか撮れなかった。全く、残念な教会であった。

Ermita de Sant Quirc de Durro

ボイ谷最高のローケションにあるのはキルクの小聖堂である。ドゥーロの集落の裏手を回り込むように、道なりに進むと、やがて、この聖堂が見えてくる。 道幅が極端に狭く、 地元の人々の農作業やトレッキング用の道路でもあり、遠慮がちに進まなければならない。頂上近くで急に道は開け、聖堂の円い後陣が姿を現す。かつて芸術新潮の表紙を飾った聖堂だが、その構図とは違った印象だった。訪れた季節の違いか。単廊式の素朴な礼拝堂ながら、その石積みの力強さに驚かされる。扉は閉ざされていたが内陣には聖キルクと聖女ユリッタの殉教を描く祭壇前飾りの板絵があったとされているが、こちらもカタルーニャ美術館で見ることができる。 凄惨な場面が続く絵ながら、この苦しみ、痛みを体験することが、神と共にあるという事なのだろうか。ただ、ロマネスクの原始抽象の手になると、どこかその凄惨さが昇華されて見えてしまうのが不思議だ。

Església de la Nativitat de Durro

キルクの聖堂から10分ほど下るとドゥーロの集落が見えてくる。屋根の瓦はグレー系に統一され、落ち着いた心地よい眺めとなっている。集落の外れにナティヴィタート教会の塔がそびえる。集落に近いせいか、なんとも生活感のある教会であった。確かな石積みによる堅固な造りを感じるが、12世紀の創建でもあり、この間の歴史の歪みもまた感じてしまう。外観の見どころは南側ポーチの扉口である。柱頭はほとんど溶けかかり、アーカンサスぐらいしか判別不明ながら、上部のクリスモンと共にロマネスクを感じさせてくれる。幸運にも内部も見学できた。ドイツからの学術チームが調査研究で入るらしく、私も招き入れてくれた。ただ、内部は改装されたらしく、外壁に見られるロマネスク感は消えていた。一番下の欄の3体のマリア像が研究調査チームの興味を引き、「お宝」との説明であったが、ロマネスクのものではないようだ。。

Església de Sant Feliu

ボイ谷を流れるノゲラ川のほとり、少し開けたバルエーラの集落にこの教会はある。外館はきれいに整備され、ロマネスクとしての典型に近い構造を見せてくれるが、装飾はロンバルディア帯のみの簡素さである。ピレネーの山塊、緑と澄んだ空気、流れる水面、整然として、たいへん気持ちがいい風景であった。内部は一変する。とにかくゴツイ、粗い石積みが無作為ながら柄行きを生み、全体的には調和がある。特に、祈りを強調するはずの後陣の3段アーチに見られる、石の遠近法ともいうべき組み上げ表現等も今までに見たこともなく、新鮮であった。ただ、ここは内壁の装飾処理をこれからする前段階であったのかもしれないが、このままでも十分に興味深い空間演出となっていた。

Santa Eulàlia d'Erill la Vall

この教会では閉じられる前10分間での撮影となった。祭壇上の梁にキリスト降下の木彫が並べられている。ここに並ぶのはレプリカで、オリジナルはビックの美術館にある。左の写真がそれで、キリストの表情、下ろし担ごうとするアリマタヤのヨセフ、手を添えているニコデモ等の深い悲しみが、静寂の中、しみじみ伝わってくる。3つの十字架の間に立つ聖母とヨハネの像はビックにはない。どのような経緯があったのか、2体はカタルーニャ美術館にある。下欄最初の写真がそれだが、堂々たる木彫で、二人で存在感を放っていたが、キリスト降下の物語を完結させるには、ビックでもカタルーニャ美術館でも、どちらでもよいが、マリアもヨハネもそろった形で、オリジナルの迫真を感じたかった。 

Església de Sant Joan

ボイ谷の語源となったボイの集落にあるサン・ジョアンの教会である。狭い敷地に無理やり建てられたせいか、この位置しか塔を入れた全体像を撮る角度がなかった。この塔も他と同じようにロマネスクのもので高さももっとあったらしいが、現在は2層を留めるのみである。ご覧のように聖堂とのバランスは悪くはない。扉口の上部に品格を感じさせる壁画が残されているがこれもレプリカで、オリジナルはカタルーニャ美術館にあるとのことだが、同美術館では確かめられなかった。内部の壁画もしっかりとは描けているが、ちょっと真新しく、オリジナル(下欄の上部2枚)とは差を感じる。特に、ステファノの石打ちのオリジナル壁画の表現力、単純さ故の力強さに感嘆しきりであった。

Sant Quirc de Taüll

最後はタウイに戻り、裏の丘に登った。ここにも林に隠れるように聖キルクに捧げる小さな聖堂がある。夕暮れが迫り、辺りが黄金色に染まり、足下にはタウイの集落が見渡せる。静寂の中、日の入りが迎えられると思っていたが、夕日の絶景ポイントとして有名らしく、三々五々、人々が集まりだした。粗い石積みながら、しっかりと組まれた外壁に夕日が当たりはじめ、聖堂を赤く染めていく。時間を忘れ、眺め入る。辺りの木々、山々、草原の輝きの一瞬に感動し、ボイ谷のロマネスク巡りを終える。 

 

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